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研究所概要報告月例研究報告ランゲージラウンジ活動報告語学検定講座報告公開講座研究プロジェクト報告研究業績51The Annual Report of the MGU Institute for Liberal Arts3. セツルメント開設から2年半を経て、大正天皇が歿した。新天皇・裕仁は、践祚から5か月後の1927年5月、「山東出兵」を断行し、以後18年にわたる中国への軍事侵略に着手した。29年10月に始まる世界経済恐慌で壊滅的な危機に陥った日本経済、とりわけ農村の困窮は、31年9月の「満洲事変」を招来する。中国東北地方に傀儡国家「満州国」が「建国」され、日本国内の貧窮農民を「満蒙開拓団」として満洲に移住させる政策が推進された。侵略戦争に活路を見出す日本国家は、さらに37年7月、中国の中心部で「支那事変」を開始する。45年の敗戦にまで続く戦争の日々が始まっという名称が残っているように、皇室の所有地だったのである。学生たちは、この国では人民の生命よりも皇室私有の地面のほうが大切だということを、身をもって知った。また、震災の被害と惨状は、東京市の東半分、とりわけ江東の本所・深川の地域で大きく、西部の「山の手」と呼ばれる住宅街では比較的軽微だったことを、学生たちは実態調査によって確認した。ここから彼らは、日本社会が均質・平等ではなく、まさに「階級社会」に他ならないことを、知識としてではなく体験として学び取ったのである。 これらの実体験は、彼らのその後の道を決定した。彼らのうちの少なからぬ人びとが、20世紀中葉の時代に、日本社会の様々な分野で、大きな役割を果たすことになる。 活動開始から1か月後に、「学生救護団」は役割を終えて解散する。だが、彼らはそのまま活動を終えたのではなかった。解散式の席上、これまでの活動から得た体験に基づいて新たな活動を続けることが決定された。「東京帝大セツルメント」が設立されたのである。セツルメント──ある地域に定住ないし常駐して、その地域で困難な暮らしを強いられている住民たちと共に生き、その生活を支援するボランティア活動の拠点──は、大震災で最も大きな被害を受けた地域の一つ、本所区柳島(現在の墨田区横川)に開設された。そこの一角の借地に「帝都大震災火災系統地図」の売却で得た7000円(現在の2000万〜2500万円)も含めた資金で会館を建設し、セツルメントが活動を開始したのは、震災の翌年の6月13日だった。 貧しい労働者の家族が大多数を占める地域に開設された東京帝大セツルメントには、託児所、医務室、児童学校、図書室などが常設され、労働者や主婦のための労働学校、少年学校、婦人学校が開校された(法律は、貧困家庭には義務教育を受ける「義務」を「免除」していた)。また、法律相談や健康診断、子供たちの遠足・林間学校・臨海学校が催されたほか、現在の生協の起源である「柳島消費組合」が結成され、その店舗も開業する。地域に根を下ろし、そこに生きる人びとと生活を共にして、その日常を改善・改革しようとしたのである。そして、このボランティア活動によって、「セツラー」である学生たち自身が、みずからを改革していった。 その彼らを卒業後に待っていたのは、「大正デモクラシー」のあとに来た「昭和ファシズム」と侵略戦争の時代だったのだ。時代の浪は、セツルメントそのものをも吞み込んでいく。

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