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研究所概要報告月例研究報告ランゲージラウンジ活動報告公開講座語学検定講座報告研究プロジェクト報告研究業績56The Annual Report of the MGU Institute for Liberal Arts3. 大きな歴史に飲み込まれる小さな歴史 災害経験を記録に留めるさい、個人の経験がより大きな水準の経験に回収されることもある。関東大震災でいえば、震災1ヶ月後には大日本雄辨會講談社編『大正大震災大火災』(大日本雄辨會講談社、1923年)が刊行され、全国各地で販売されてベストセラーとなった。同書は「大震災記」「大火災記」「死灰の都をめぐる」「地方の惨状」などの見出しで甚大な被害の概況を伝えるとともに、「鬼神も面を掩ふ非話惨話」「人情美の発露! 美談佳話」「嘘のやうな事実! 震災異聞」など、個人の災害体験に基づく逸話を集めた項目も設けている。 掲載された逸話に目を通して気づくのは、個人の匿名性である。例えば「鬼神も面を掩ふ非話惨話」に掲載された「酔つた勢ひで我児を焼く」では「地震と共に真先に焼き払われた神田神保町の某酒店の主人公は、まだ物凄く余焔のなめ廻つてる二日の朝その焼け跡から二十歳の娘と十三歳の男子の見るからにいたましい焼死体を見つけ出した」13)と、登場人物の氏名は記されない。同様に「愛児の始末」でも、娘を亡くした父親を「三日の夕方まだ戦場の様な江戸川端を所々に焼け焦げのある印半纏を来た労働者風の男三歳計りの女児を背負つてトボ〳〵歩いて来た」14)と描写し、ここでもその人物が誰なのかは問題にされない。悲話とは対照的な「人情美の発露! 美談佳話」でも同様であり、「大人も及ばぬ少年の義気」では「いま崩れ落ちた二階の戸袋を押し破つてぬつと一つの黒い顔が現れた。泥にまみれところ〴〵傷ついた紅に染んだ小さな顔、それはその店の小僧さんであつた」15)と、被災者救護に活躍した人物の氏名は記されず、「その店の小僧さん」とその属性が示されるのみである16)。 代替不能で一回性であるはずの個人の被災経験は、匿名化を経て個人性が希薄になることで、容易に「大震災」という未曾有の事態を記述する「大きな歴史」を構成する一齣として一般化される。『大正大震災大火災』の冒頭に掲げられた三上参次の「序」では、「この峻烈なる天罰を、七千万日本人の身代りとして引受けられた幾万の同胞に対して、深厚なる感謝の意を表したい〔中略〕立派な大正十二年以後の新時代を将来するならば、それこそ犠牲者にとつては、真に万劫不断の供養であり、真に永代不朽の記念殿堂であらう」と語られる。ひとりひとりの犠牲者は、「天罰」を国民は保たれ、忘却に抗う態勢を整えることができると言えよう。 しかしそれでも、忘却への恐れは払拭できるものではない。2011年の東日本大震災後、同会の会員たちが抱いた複雑な思いも高森の著作には留められている。地震と津波の被害の甚大さを目の当たりにして、「東日本大震災は、阪神・淡路大震災と比べ物にならない」「私たちは神戸で被災をしたけれど、東北の人たちと同じだ、とは到底言えない気持ちがある」「今『震災』というと、誰も阪神・淡路大震災のことだと思わなくなってしまった。これが風化なのかな、でもこれはもう仕方のないことかもしれないと思っている」12)等の声があがったという。皮肉にも新しい大災害の発生が、先立つ災害の忘却の契機になる恐れがある。

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