研究所概要報告月例研究報告ランゲージラウンジ活動報告語学検定講座報告公開講座研究プロジェクト報告研究業績63The Annual Report of the MGU Institute for Liberal Arts3.阪神淡路大震災─戦後日本で外国人が初めてクローズアップされた災害 周知のとおり、阪神淡路大震災は、1995年1月17日5時46分に、淡路島北部を震源とするマグニチュード7.3の地震が起きたことに端を発する。この地震でもっとも震度が大きかったのは神戸周辺で、震度7を観測し、死者6,434名、行方不明者3名、負傷者43,792名 (消防庁調べ、2005年12月22日現在。)に上る災害だった。全体の死亡者6,433人のうち外国人死亡者が174人といわれる。 神戸市を中心とした兵庫県は1995年当時すでに外国人の集住地区であり、1995年の兵庫県の在留外国人数は、全国有数の約9万5千人、(法務省1995)6)。東京、大阪、愛知、神奈川に次ぐ第五位であった。韓国・朝鮮籍の人口でいえば、大阪、東京に次ぐ第3位だが、特徴的だったのは、ベトナム人が当時から多かったことであろう。ベトナム出身者は、神奈川と兵庫にほとんどが集住していたこともあり、1700人以上が兵庫県(ほとんどが神戸市と推測)に在住していた。これは、兵庫県姫路市にベトナム難民を含む「インドシナ難民定住促進センター」が存在していたことの影響が大きい。 神戸市の中でも甚大な被害を受けたのは長田区で、特に火災による住宅の消失が著しく、4759戸と、神戸市内の全焼棟数の68.3%を占めたという7)。この長田区には「ケミカルシューズ工場」が多数存在しており、好景気により多数のベトナム人が、知り合いからの情報を得て、ケミカルシューズ工場に集まっていた。その長田区の被害が大きかったことにより、被災者の中の「外国人」が戦後はじめて「可視化」されることになった。 震災から10日後の朝日新聞の報道でベトナム人の被災者のことが次のように紹介されている。神戸市長田区の公園。フジだなに青いシートをかけただけの「部屋」に、中国系ベトナム人チン・アハさん(三五)たち三家族十三人は暮らしている。家族四人で住んでいたチンさんの一戸建て住宅は全壊した。同じ中国系ベトナム人の仲間たち二十人余りでいったん近くの小学校に避難しようとしたが、人数が多すぎてあきらめた。仲間のほとんどは十三年前、ベトナム難民としてマレーシアのキャンプから日本へ来た。多くは工場で働き、チンさんはメッキ工場の工員だ。震災から三日目までは、シートも毛布もなかった。寒さで次第に人数は少なくなった。二十九日、米国人のボランティアが訪ねてくれ、何が欲しいかと聞いた。即座に「暖かくなるもの」と答えた。三十分もすると、ボランティアが人数分の寝袋とテントを持って来た。別の公園にいるベトナム人にテントを届けようと、チンさんの仲間の一人が、自転車で駆けていった。(朝日新聞1995年1月30日朝刊23ページ)8) 実際、1年近くも避難所で暮らしたり、テント暮らしをしたりというベトナム人のいたという。こうした状況を受けて野上(2015)は「被災ベトナム難民は外国人差別、言葉の壁によって必要
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