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研究所概要報告月例研究報告ランゲージラウンジ活動報告公開講座語学検定講座報告研究プロジェクト報告研究業績64The Annual Report of the MGU Institute for Liberal Arts4.東日本大震災─災害弱者…だけでもなく救援に走る外国人コミュニティ 東日本大震災は、2011年3月11日14時46分頃に発生した。三陸沖の宮城県牡鹿半島の東南東130km付近で、深さ約24kmを震源とする地震が起きたが、地震そのものよりも、その後の巨大津波による被害が広範だったことが特徴であろう。岩手、宮城、福島県を中心とした太平洋沿岸部は、巨大な津波に襲われたが、李(2013)10)によれば、この3県の2010年の12月の外国人登録者数は、全部で3万3623人。東北地域は日本全国の中でも、定住している外国人の数が少なく、しかも農漁村においては、広く散在しているのが特徴で、死亡者は決して多くはない。その数23人だ。 警察庁によれば、震災発生直後、外国人が取った行動を調べると、運に加え、「日本語」「近所付き合い」「防災意識」の3点が生死を分けた要因として浮かび上がったという。また、この際、「高台に避難してください」という言葉が理解できないと推測された日本人の配偶者の女性が、津波で死亡したというニュースも報道された。 だが、東日本大震災の支援で、阪神淡路大震災と大きく異なったのは、在留外国人が支援団体を作って、多く被災者の支援を始めたことだ。例えば2011年5月5日の朝日新聞の記事11)では、な情報を入手することが難しいという現実に直面した。日本にベトナム難民が上陸して20年が経過してもなお、彼らは依然として不利益な立場に置かれていたことが、震災によって顕在化したのである。」9)と総括する。 一方で、ここから立ち上がって、日本人とも手を取り合い、同胞のために活動するというベトナム人が現れたのも阪神淡路大震災がきっかけだった。一部のベトナム難民は、日本人と力を合わせて自分たちの手で状況を改善していこうと、「被災ベトナム人連絡協議会」を立ち上げた。その会は「ベトナム夢KOBE」という団体として今も神戸で活動を続けている。東日本大震災の被災者の一時避難所となっている川崎市中原区のとどろきアリーナで4日、関東地方に住むベトナム人約40人が炊き出しをした。春巻きや250食分のフォーなど、出来たてのベトナム料理が振る舞われ、被災者らが舌鼓を打った。40人は、1970年代後半にベトナムの政情が不安定になったことから、来日した元難民。かつての仲間に炊き出しを呼びかけた1人、トラン・クォック・タイさん(43)=大和市=は「難民の私たちを日本は受け入れてくれた。その恩返しで何かできないかと思う気持ちで、みんなが一つになった」。今後も機会があれば支援をしたいという」(朝日新聞2011年5月5日朝刊25ページ)とある。阪神淡路大震災で、震災弱者だったベトナム難民は、この時は支援に回ったことになる。 外国人の支援活動を報道する記事は、ミャンマー人、愛知のモスクに集う人のものなど多数にのぼるが、Web記事で紹介され目を引くのは豊島区のモスク、マスジド大塚の活動だろう。「仙台が

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