研究所概要月例研究報告ランゲージラウンジ活動報告語学検定講座報告研究プロジェクト報告研究業績20The Annual Report of the MGU Institute for Liberal Arts3. 聖書における「いのち」理解 新約聖書において「いのち」は、主としてギリシャ語で代表的な二つの側面、ビオスとゾーエーの側面で理解されます。ビオス(としてのいのち)は人間の生存期間や生涯、生活、財産など現象麺として現れるいのちです(ルカ8:14、マルコ12:44、Ⅰテモテ2:2)。ビオスは、バイオエシックス(生いのち倫理bioethics)やバイオテクノロジー(biotechnology)の「バイオ」(bio-)の語源としても知られます。国への「公害輸出」の問題もこれと無関係ではありません。90年代に筆者は水俣病患者や支援者とともに韓国・タイ・マレーシアに出かけ、現地の環境市民団体との交流をとおして、公害被害者たちの痛切な証言を聴く機会を得ました。公害は未だ解決していないのです。 現在、私たちの生活を快適かつ便利なものとして身近に溢れている製品の主な原料の多くは、チッソ企業が作り出したものです(化学肥料、塩化ビニール樹脂、液晶、防腐剤、保湿剤など)。いまも利用している以上、水俣病は過去の問題ではなく、現在の私たち個々人のみならず日本というこの国の在り方、また「いのち」の根源そのものを深く問う現在と将来につながる事件だと考えます。便利さや快適さを享受することで知らず知らずのうちにチッソを支えていた自分自身の日常生活の在り方を、筆者自身が水俣との出合いを通じて問うようになりました。水俣病は「社会病」であり、半世紀以上経過したいまもこの社会に生きる私たち個々の在りようや生き方を告発する事件であるのではないかと。 水俣現地で多くの患者さんと出会いましたが、「なぜこの人たちだったのか」。しかしそれは、たまたま水俣に住むこの人たちなのであって、いつどこで誰が同じような目にあうか分からない世界に私たちは生きています。つまり、栗原彬も指摘しているように、私たちは「水俣病のある世界」に生きている。加害や被害などのベクトルはそれぞれ異なっているとしても、チッソの恩恵を受けて生活している市民すべてが潜在的に当事者であるということでしょうか。だとすると、公害に第三者はいない、ということになります。 水俣病とは何であったのか。水俣病の原因は有機水銀であり、それを大量に海に流し続けたチッソです。しかし、そのもっとも根本的かつ大いなる原因は「人を人とも思わない状況」、換言すれば、人間疎外、人権無視、差別といった、今日に続く状況です。水俣病の根底にあるのは、「人を人とも思わない」という差別的な論理(原田正純)であり、「いのちへの軽視」にほかなりません。公害の原因の一つはここにあるのではないでしょうか。 筆者にとって水俣病は、自分の価値判断からの越境を促すだけでなく、いのちに対する倫理的責任を担う主体へと導く実例です。既成の枠組みや殻を打ち破り、自らの専門性や体験をいかに越えるかを深く問うべくいまも強い迫りを受けています。それでは、筆者の生き方と存在を基礎づける聖書は、「いのち」をどのようにとらえているのでしょうか。
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