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研究所概要月例研究報告ランゲージラウンジ活動報告語学検定講座報告研究プロジェクト報告研究業績21The Annual Report of the MGU Institute for Liberal Arts このビオスと対照をなすのがゾーエー(としてのいのち)です。いのちそれ自身、あるいは、生きて活気のある状態、永遠のいのち、といった意味を持ち(ルカ12:15、ローマ8:38、Ⅱコリント4:10、Ⅰヨハネ2:25)、新約聖書のいのち観で最も重要な意味があります。ゾーエーは、神から与えられるいのちです(使徒言行録17:25)。新約聖書のいのち理解は、ビオスとしてのいのちを重視しつつ、それを超えたゾーエーとしてのいのちを指し示します。ゾーエーは神に由来するいのちであり、さらにイエス・キリストの十字架と復活に由来するいのちであるという点で重要です。パウロは、「私たちは、いつもイエスの死をからだ(ソーマ)にまとっています、イエスのいのち(ゾーエー)がこのからだ(ソーマ)に現れるために」(Ⅱコリント4:10)と語ります。イエスの十字架の死と復活のいのち理解を根拠に、パウロは人間のいのちの終焉である死が決して敗北ではなく、新しい希望のいのちの始まりであると主張します。「死者の復活もこれと同じです。蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです。つまり、自然のいのちのからだが蒔かれて、霊のからだが復活するのです」(Ⅰコリント15:42-44)。ここには、ギリシャ的な霊魂不滅思想とは異なる「からだの復活」が述べられています。人間は、「自然のいのちのからだ」としては死を迎えるけれども、「霊のからだ」として甦る、と身体性に即して厳粛な死と復活の希望のいのちに言及しています。死後に復活の希望のいのちが「霊のからだ」として甦ること、すなわち、死者のよみがえりは抽象的な仕方で起きるのではなく、死んだ人間がその人の個性においてよみがえることなのです。 「からだ」(ソーマ)は、使徒パウロの人間観の中核をなす概念です。ギリシャの二元論的人間観に対して、キリスト教の人間観は、旧約のヘブライ的一元的人間観に根ざしています。「からだ」としての人間は、一人の人間の人格全体を指します。このことも神との関係において理解されています。「自分のからだを神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です」(ロマ12:1)。からだとしての人間が神への人格的応答に呼びかけられ、応答する存在として人間は責任をもつ存在として立てられています。 「神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、からだを組み立てられました。それで、からだに分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。あなたがたはキリストのからだであり、また、一人一人はその部分です」(Ⅰコリント12:24−27)。キリストのからだとしての教会は、共に苦しみ、共に喜ぶ身体的共同体です。私たち人間は、他者との「交わり」という関係性のなかでどこまでも共同的存在として生きる存在なのです。 旧約聖書の創世記における「神のかたち(ツェレーム)」は、生と死の問題を考えるうえで広い視座を与えます。創世記1章27-28節に「神は御自分にかたどって人を創造された。……」とあり、ここに、人間が神によって創造されたという聖書の人間観が示されています。著者のP

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