研究所概要月例研究報告ランゲージラウンジ活動報告語学検定講座報告研究プロジェクト報告研究業績35The Annual Report of the MGU Institute for Liberal Arts■岡拓はじめに 近代日本では、「御猟場」と呼ばれる天皇・皇族の狩猟場が各地に設置されていた。しかし、多くの御猟場は、大正期に解除となり、形を変えつつ現在まで存続しているのは、埼玉鴨場と新浜鴨場の2つにすぎない。 筆者は、この御猟場の設置・解除をめぐる動きを検討することが、近代日本(特に明治期)の天皇・天皇制の有り様を地域の視座から解明していく上で有用な作業になると考え、かねてより研究を行ってきた。その作業の中で、明治16年〜21年にかけて茨城県東茨城郡水戸地域に設置されていた千波湖御猟場が、既存の御猟場が文字通り狩猟のために設置されたのと異なり、千波湖周辺の風致保存のために設置されたものであることを明らかにした上で、そのような通常の目的と異なる性格を持つ御猟場が、明治20年代には複数設置されていたのではないかとの見通しを立てた。そして、その可能性を持つ御猟場の1つとして、宮城県遠田郡に設置された涌谷御猟場をあげたのである1)。 本稿では、上の「仮説」の検証を行う意図も込めて、涌谷御猟場について検討していく。その作業を通じ、この涌谷御猟場が設置されていた時期が、千波湖御猟場設置以降の宮内省主猟局が行ってきた自然環境保全(風致保存や鳥獣の繁殖保護)活動の転換期であったことを示したい。1.涌谷御猟場の設置1-1 御猟場設置願の提出 明治25年8月中旬、宮城県知事船越衛から宮内大臣土方久元に宛て、次の伺書が提出された2)。 御猟場願之義ニ付伺 (名鰭沼・下郡沼の所在地および面積に関する記載省略)前記ケ所之儀ハ、古来鴻雁ノ類夥多棲息シ、為メニ沼池ノ荒蕪ヲ防クノ効有之候ニ付、旧藩治中ニ在テハ禁猟ノ場所ニ定メ有之候処、維新後ニ至リ乱撃極リ無ク、年ヲ追テ諸鳥類減少シ、随テ沼池荒蕪ニ帰シ、排水ノ不便ヲ来スノミナラス、漁業ノ障害トモ相成候間、此際御猟場ニ被為定、人民ノ銃猟御禁止相成候様仕度、尤漁業ハ毎年一月・二月ヲ除クノ外、従前之通相営ミ度段、該村民ヨリ致出願候、右事実ニ於テハ相違無之候ニ付、可然御詮議之上、何分之御指揮相成候様仕度、此段相伺候也 明治廿五年八月十八日 宮内大臣子爵土方久元殿 名鰭沼と下郡沼は、かつては鴻や雁が多く生息し、それら鳥類によって沼池の荒廃を防止できたため、旧藩時代は禁猟地と定められていた。しかし、近代以降は乱獲され、生息数の減少とそれに伴う沼池の荒廃が顕著に進み、排水や漁業にも支障が出ている。その状況を改善するため、御猟場宮城県知事船越衛 月例研究報告涌谷御猟場について─宮内省による自然環境保全の取り組みとその終焉─
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