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研究所概要月例研究報告ランゲージラウンジ活動報告語学検定講座報告研究プロジェクト報告研究業績37The Annual Report of the MGU Institute for Liberal Arts十文字信介【時期不明】(前掲『涌谷町史 下』図版4より)の方を基に作成されたのであろう。1-2 涌谷御猟場と十文字信介 『猟場録』や『地理 涌谷御猟場一件書』4)といった現在まで残存する公文書類を見る限り、涌谷御猟場設置をめぐる最初の動きは、先述の下郡沼願書の提出である。しかるに、当時、宮内省主猟局長を務めていた山口正定の日記には、下郡沼願書の提出よりも1か月ほど前の動きとして、次のような記載がある5)。【明治25年6月27日条】(前略)七時、仙台人ニテ十文字信介来訪、右ハ松島近傍ノ沼池ニテ元伊達安芸ノ領分ナリシガ、人民ヨリ請願スルユヘ白鳥・菱喰・雁等ノ御猟場ニ被 仰付度旨ナリ、十文字ハ遊猟ノ名人ニテ頗ル熱心ナリ、一時間余対話シテ去ル 十文字信介は、涌谷の領主であった亘理伊達氏に砲術指南役として仕えた十文字秀雄の長子(嘉永5年(1852)11月生)で、維新後、津田仙らが創立した学農社で学んだ後、広島県勧業課長・宮城県農商課長兼農学校長・同県仙台区長兼宮城郡長などを歴任、第1回衆議院議員選挙に宮城県第3選挙区(加美・黒川・志田・玉造・遠田の5郡)から出馬・当選し、日本憲政史上初の衆議院解散が行われた24年12月まで議員を1期務めた人物である6)。また、山口が日記に記している通り、十文字は銃猟の名人としても知られた存在で、明治25年当時は銃猟の経験と銃への知識を活かし、東京府神田区西紅梅町で銃砲販売業を営んでいたという7)。 上の日記によれば、山口正定と面会した十文字は、「元伊達安芸」すなわち亘理伊達氏の旧領を「白鳥・菱喰・雁等ノ御猟場」とするよう願ってきたという。また、山口の日記の記述からは、十文字が「人民ヨリ請願スル」との話もしていたことも確認できる。この六月末の時点で、翌七月下旬以降の下郡沼願書および名鰭沼願書の提出を予言するかのようなことが語られていたのである。 先述の通り、下郡沼願書は元涌谷村村長の涌沢授の名前で提出されたものであるが、その元涌谷村は、明治22年4月の町村制施行の際、涌谷村・小塚村・上郡村・下郡村の計4か村が合併して誕生した村8)である。十文字信介の生家があった涌谷城下の御小人丁9)は、かつての行政区画上では、合併した村の一つである涌谷村に属していた10)。十文字自身はこの地域を離れて久しいが、第1回衆議院選挙で宮城県第3選挙区から出馬・当選していること、議員退任直後の25年1月末、元涌谷村内の久道保兵衛方にて慰労会が開かれていること11)などから、彼がこの明治25年の時点でも地元で強い影響力を保持していたのがわかる。

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