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研究所概要月例研究報告ランゲージラウンジ活動報告語学検定講座報告研究プロジェクト報告研究業績38The Annual Report of the MGU Institute for Liberal Arts 以上のことから推測するに、十文字信介は、山口正定に面会したのち、元涌谷村在住の住民に接触して、御猟場設置の願書を提出するよう促したのではないだろうか。なお、元涌谷村長の涌沢授は亘理伊達氏の家老涌沢七郎左衛門の子であり12)、十文字とは亘理伊達氏の旧家臣団としてのつながりもあったであろう13)。 その後も十文字は、7月に1回(2日)、8月に3回(15日、16日、17日)、山口正定に面会している。16日の面会の際、山口が涌谷への視察出張が決定した旨を伝えると、十文字は歓喜した。翌17日、早速山口に涌谷出張の辞令が出るのであるが、注目すべきは、同日に宮城県知事船越衛が山口の下を訪問し14)、その翌日である18日に、本章冒頭に引用した御猟場設置伺書が提出されていることである。すなわち、船越が伺書を提出するよりも前の段階で、涌谷への御猟場設置計画は動き出していたのであり、この点からも、涌谷御猟場の設置は十文字の尽力に拠るところが大きかったことが窺い知られよう。 山口は、十文字と船越を帯同して、8月21日から24日かけて涌谷を視察する15)。そして9月13日、宮内省より内務省・農商務省に宛て、両省の方で問題がなければ、宮城県遠田郡の下郡沼・名鰭沼を明治25年10月1日より30年9月30日までの5年間御猟場として定めることを、訓令として宮城県へ伝達してほしいと照会した16)。これを受けて農商務省は、9月24日、下郡沼・名鰭沼を10月1日より5年間御猟場(涌谷御猟場)に選定すること、同御猟場での人民による狩猟は禁止し、漁業のみ1月・2月を除いて許可する旨を明治25年農商務省訓令第27号として、農商務大臣後藤象二郎・内務大臣井上馨の連名で発した17)。かくして涌谷御猟場は設置されるに至ったのである。1-3 十文字信介の目論見 十文字信介が、明治25年当時、銃猟の名人として名を馳せていたのは前述した。十文字は、衆議院議員在職中であった24年10月、『傍訓図解 銃猟新書』18)と題した著書を出版している。その著書の中に、次のような一節がある。当時の狩猟をめぐる社会状況に対する十文字の考えがよくわかる内容なので、長文を厭わず引用してみよう(122〜125頁)。    〇鳥獣蕃殖の保護鳥獣に有功有害の区別あり、有害の者は取て其害を除くと共に人用に供すべしと雖も有功の者ハ決して之を捕獲せざるを要す、勿論捕獲すべき者と雖も之を捕ふるハ一定の時に於てすべく其捕獲の法残忍刻薄を避くるを肝要とす、他なし其■尾妊娠の期分娩後養育の季節等に於て之を捕ふる時ハ其数年々に減少して終に子遺なきに至らんハ十数年前濫獲の初まりし以来諸方の実況に照しても之を知るを得れバなり、故に■尾の期より、育養全く終るまでの間ハ都て鳥獣を捕獲せず其蕃殖を謀るを以て猟法上特に我邦の今日に於てハ必要緊急の務とす、其捕獲を制するが如きは銃猟を以てすると網係蹄等を以てするとを問ハざるなり(中略)余一夜前外務大臣青木周蔵君と寛話して談偶ま銃猟に渉りしか君は得意に海外の実例を取りて

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