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研究所概要月例研究報告ランゲージラウンジ活動報告語学検定講座報告研究プロジェクト報告研究業績40The Annual Report of the MGU Institute for Liberal Arts 以上のように、十文字がその著書の中で政府や地方官の「命令」によって禁猟区を設定する必要性を訴えていた明治24年当時、実際にそのような取り組みを行っていたのが宮内省であった。十文字が涌谷への御猟場設置を山口正定へ掛け合ったのは、そうした宮内省の取り組みを把握した上でのものだったのではないだろうか。下郡沼願書(およびそれを基に作成されたと考えられる名鰭沼願書と宮城県知事伺書)が鳥獣繁殖保護のために御猟場の設置を求める構成になっているのは、十文字の目論見がそのまま願書に反映された結果であったといえよう。 『銃猟新書』刊行から3か月後の25年1月、内容の補訂のために『銃猟新書 増訂録全』24)が刊行される。その中で十文字は、先に長文で引用した箇所の後略部分を、次のように書き替えていた(30〜31頁)。百二十五頁鳥獣蕃殖保護説の末段ハ左の如く改む(但独逸制に依り直ちに該国の如き区画猟法を施行するときは、貴族豪農商の利となるのみにして一般の狩猟家は其快楽と利益とを失ふに至るや明けしと雖も一郡内一二ケ処位つヽも禁猟の場所を設け置くにあらずんば鳥獣の蕃殖を害すること甚しきに至るべし、何とかして其方法をも設け度ものなり(以下略) 「独逸制」とは、1850年にプロイセンで制定された、狩猟権を75ha以上の土地所有者に限定した狩猟監督法のことであろう25)。十文字は、狩猟監督法のような狩猟者数の制限にもつながるやり方で繁殖保護を図る方法は批判し、代わって郡ごとに1、2か所の「禁猟の場所」を設定することを主張した。彼自身がどこまで意識していたのかは定かではないが、涌谷御猟場の設置は、宮城県遠田郡に下郡沼と名鰭沼という2つの禁猟区を誕生させたのである。1-4 宮内省における涌谷御猟場の位置づけ 涌谷御猟場を設置した宮内省は、同御猟場をどのように位置づけていたのであろうか。本章の最後に、この点を確認していこう。 次の史料は、涌谷御猟場設置からほどなくして宮城県知事船越衛から出された御猟場への監守設置願に対し、宮内省が12月5日付で作成した回答案のカガミである26)。今般新設相成候宮城県下遠田郡涌谷御猟場之義ハ、地方人民ノ請願ニ依リ御猟場ト被定候ニ付、統テ取締上ノ義ハ警察署ヲ始メ郡役所・町村役場等ニテ注意可致筈ヲ以テ、別段監守長・監守等ノ職員無之候処、実際ニ於テ取締主任者無之テハ不都合ノ次第モ有之趣ニ付、無給監守五人被差置度旨、別紙ノ通リ該県知事ヨリ内議有之候、就テハ、別段費用ヲ不要上ハ、岐阜県長良川筋御猟場ノ振合ニ準シ、監守定員外前書五名被差置候様致度、御允許ノ上ハ該知事ノ照会人撰為致、人名追テ上請可致、此段相伺候也  追テ監守長ノ事務ハ遠田郡長ニ於テ相心得候筈ニ付、此段御聴置相成度候也 涌谷御猟場は地域住民の請願を受けて設置した御猟場であるため、宮内省としては監守長・監守

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