研究所概要月例研究報告ランゲージラウンジ活動報告語学検定講座報告研究プロジェクト報告研究業績41The Annual Report of the MGU Institute for Liberal Arts2.涌谷御猟場の廃止 涌谷御猟場は、設置から5年後の明治30年9月末日を以て御猟場契約を解除される。その理由は何だったのか。設置後の涌谷御猟場の運営のあり方も踏まえながら見ていくこととしよう。を任命して管理するのではなく、所轄の警察署や郡役所・町村役場に管理を委任する方針であった。ところが、知事から無給監守を5名設置したいとの内議があったため、長良川御猟場の方法を準用し、監守5名を無給で設置することを許可することにしたのだという。なお、追而書にもある通り、こののち、監守長についても事務を郡長に委嘱する形で設置が決定した27)。 右の引用の中に出てくる長良川御猟場は、鵜飼技術の保護を求める岐阜県知事小崎利準からの請願を受けて、明治23年12月、岐阜県の長良川流域の一部に設置された御猟場である28)。請願により設置されたという点で、涌谷御猟場と共通しており、それゆえ、運営法について先例となる部分があったのであろう。ただし、長良川御猟場には、宮内省側の意向で設置された御猟場と同様、御猟場の管理運営の方法を定めた御猟場規則や監守・監守長の服務規程などが存在したが、涌谷御猟場にはこうした規則類は作成されなかった29)。 以上のように、涌谷御猟場は、その設置段階においては、同時代に存在した他の御猟場とは異なる位置づけを宮内省から与えられていた。この宮内省内での位置づけの違いという点からも、涌谷御猟場が鳥獣繁殖保護を目的に設置されたものであることが傍証できるのである。2-1 設置後の涌谷御猟場 1-4で確認した通り、宮内省は涌谷御猟場の設置当初、鳥獣繁殖保護を求める住民請願を受けて設置した御猟場であるとの理由から、他の御猟場とは異なる管理運営の方法を取ろうとしていた。とはいえ、では宮内省側が同御猟場に狩猟場としての役割を何ら求めていなかったかというと、必ずしもそうではなかった。たとえば、明治26年11月18日〜20日には、山口正定が天皇の下命を受けて涌谷へ出張(十文字信介と船越衛も帯同)し、御猟場へ狩猟を行っている30)。また、千石五郎の日誌によれば、26年7月には「小松宮殿下」の希望で白鳥1羽を涌谷で手配・献上し、30年5月にも負傷手当をしていた白鳥2羽を宮内庁主猟局に送っていた31)。 地域住民も、御猟場の管理運営に主体的に関わっていた。たとえば、涌谷御猟場設置決定時、下郡沼・名鰭沼は1月・2月が漁業禁止期間と定められたが、27年に入り町村側が禁漁期間の延長を申し出た結果、28年から期間が2週間延長され、3月14日までとなる。監守も職務を誠実に遂行しており、27年秋に下郡沼で多数の鴨の死骸が見つかった際は、腐敗が進んでいない死骸の送付を県庁から要請されたため、監守らが中心となって捜索に当たっている。また、時期は前後するが、26年2月には、灌漑用水路検査のため名鰭沼を漁船で回乗中だった桃生郡(遠田郡の隣郡)の郡長鈴木太郎作の一行を、監守が御猟場への侵入者と誤認して宮内省に通報、裁判所にまで告発してし
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