研究所概要月例研究報告ランゲージラウンジ活動報告語学検定講座報告研究プロジェクト報告研究業績69The Annual Report of the MGU Institute for Liberal Arts 陳氏のご講演で最も強く印象に残ったのは、時代の変化や危機に対し、臨機応変に対応していく華僑・華人のしなやかな考え方とバイタリティである。陳氏や大原氏のように戦前に来日した先祖を持つ長崎生まれの老華僑ばかりではなく、今の華僑コミュニティには新華僑も多く、むしろ老華僑は少しずつ日本人社会と融合しつつあると陳氏は述べた。1944年生まれの陳東華氏が、若い世代の変化を柔軟に認め、後押ししていく姿勢には、教育の現場に身を置く者としても学ぶところが多かった。 なお、プロジェクトメンバーの渡辺祐子は「長崎とキリスト教そして中国」と題し、唐船貿易を介して、清国と江戸時代の日本との間にキリスト教(カトリック)に関する情報交換があったことを報告、篠崎美生子は「近代文学の中の華僑」と題し、ごく一部の例外を除いて日本近代文学が長崎華僑もしくはその文化を、皮相な消費の対象としてしか扱ってこなかったことへの憤りを示した。また、朱海燕はディスカッサントとして、新地の中国人コミュニティ近くにあった朝鮮人コミュニティとの関係や、華僑の「被爆」体験について問題提起を行った。会場からも長崎華僑・華人の言語教育に関する質問がなされ、陳氏の幼時にも、学校での北京語、家庭での福建語、街での日本語というトリリンガル状況があったことが明らかになった。 長崎華僑・華人の集住地であった新地、館内が長崎市南部に位置し、北部の浦上に投下された原爆の火災が及ばなかったことは、彼らにとって幸いなことであったろう。一方、「真っ黒」な粉塵が降り、怪我人や遺体が運び込まれた点は、長崎市内や周辺の町々と同様であったはずだ。そもそも原爆を長崎に投下する場合の本来の目標を、米軍は長崎南部中心地の「常盤橋」に設定していた。そこから数百mの場所に連合国のひとつである中華民国(当時)の人々の集住地があったこと、1kmあまりの場所にオランダ人などが収容された福岡俘虜収容所14分所(2024年にその史跡を解体して長崎スタジアムシティが建築された)があったことの意味も考えねばなるまい。日本社会と融合するべく、さまざまな努力を惜しまなかった華僑・華人に対し、陳氏が述べるように、現在「一切差別がない」かどうかについても、注意深く見続ける必要がある。 本年度の成果の一部は、話し手:大原賢子、聴き手:篠崎美生子・朱海燕 インタビュー「歴史をこえ、海をこえて長崎に生きる──華人3世に聞く」(明治学院大学国際平和研究所『PRIME』48号、2025.3刊行予定)に公開される。本プロジェクトは今年度で終わりであるが、これにとどまらず、今後も長崎華僑の近現代について、調査・研究を続けていく予定である。
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