明治学院大学 教養教育センター

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教養教育センター長 挨拶

教養教育の三つのルーツ

教養教育センター長 黒川 貞生

 

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教養教育センターの前身は一般教育部という組織でした。一般教育部はいわゆる専門課程に対して、一般教養課程(4年間の前半の2年間)を運営する学部組織でしたが、明治学院大学はこれを11年前に教養教育センターとしてあらためて再スタートさせました。

明治学院大学はもともとヘボン博士が礎を築いた時代から、教育の基盤を「普通教育」、すなわち、教養教育においてきました。教養教育センターのスタートは、その伝統を継承しつつ、その上に現在の明治学院大学にふさわしい、現代的な教養教育のあり方を研究模索することの必要を大学が認めた結果でした。

当時、専門課程と一般教養課程の区別の廃止に伴って、全国の国公私立大学では一般教育部がつぎつぎと廃止され、専門教育のみとしようという大学が多かったのですが、明治学院大学では、むしろその内実を拡大して、2年間ではなく学士課程の4年間、専門教育と並行して教養教育を行う、という決断をしました。現在、教養教育センターのような4年間の教養教育のための恒常的な教員組織を有する大学は、国公私立大学を含めて、全国にほんの数例しかありません。

教養教育は、半分は個々の教員の教育姿勢の中に現れるものなので、特定の組織がなければ維持できないということでは必ずしもありません。しかし、専門教育がだんだんとより狭い、特殊な領域へと集中して行こうとするのに対して、教養教育は知をより広い方向へと広げ、統合して行こうとするので、ベクトルとしては正反対です。

しかも、教養としての知は、科学としての学問知とは違って蓄積がききません。科学では先人が証明したことを自分でもう一度証明する必要はありませんが、教養では、先人が「これが真理だ」とたとえ証明してくれたとしても、それをもう一度最初から自分で辿り直してみなければ本物とはなりえません。他人の着物を着ることができないのです。自分で悩み、悪戦苦闘し、考え抜いて、「ああ、あの人の言ったことはその通りだ」と身にしみてわかったときにその人の教養となる、というわかり方をします。

個々の教員が専門知と教養知の両方をバランスよく保ち、教育活動を行うというのはなかなか難しいことです。それを支える姿勢と雰囲気が大学全体からなくなれば、手間ひまがかかる教養教育から姿を消して行くことは目に見えています。全国でそのような現象が進行したことはたいへん残念なことです。


教養教育は「豊かな人間性を育てる」教育であるということが強調されてきました。しかし、その中身は必ずしも明確にされてきたわけではありません。いま教養教育センターはヘボン博士以来の「普通教育」の伝統を継承していると言いましたが、その点に関して明治学院大学をはじめとする、多くのキリスト教系大学はむしろ例外的でした。明治学院大学は、ある分野の専門家たる者は、確固たる世界観と人生観を持ち、神と人を愛し、世に仕える人間であることこそ肝要であり、そういう人格を培うことが教養教育の使命であるということを繰り返し強調してきました。

世界観と言い、人生観と言い、それらは自分で対決して身につけるべきものですが、明治学院大学の教養教育の伝統は、それを大きく三つの枠組みの中で問うてきました。

一つはリベラル・アーツの伝統です。教養教育センターの英語の名称はCenter for Liberal Artsとなっています。リベラル・アーツは、今日では一般に「教養」の意味で使われていますが、直訳すれば「自由学芸」です。これは中世ヨーロッパの伝統に、さらに遡れば、古代ローマ、古代ギリシアの教育思想にまで遡ります。教養教育の第二の伝統は、20世紀に登場するジェネラル・エデュケイション(General Education)です。アメリカの大学では、コモン・カリキュラム(Common Curriculum)とか、コア・カリキュラム(Core Curriculum)という言い方もします。

リベラル・アーツの基本は、自由な人間になることです。詩作や、哲学、表現において人間を強要し、拘束するあらゆるものから人間を解放すること。自由人を作ること。ここにリベラル・アーツ教育の主眼があります。その中心的価値は、自律性(Autonomy)と真正性(Authenticity、本物であること)です。

それに対して、ジェネラル・エデュケイションの基本は、戦争をしない人間になるということです。20世紀の大学は、いろいろな学問の名において、また、専門的な知の追究を通して、自国が敵と見なした相手に対する大量殺戮と莫大な生活財、文化財の破壊をもたらしました。今ももたらしています。19世紀までの教養は、結局のところ戦争と破壊を阻止することができませんでした。ジェネラル・エデュケイションは、そのことに対する根本的な反省に立って、学問と知識と自由を人間の(味方だけでなく敵も含めて、という意味ですが)幸福と福祉と豊かさのために用いること、そのような行動的な知のあり方を反映した教養こそが教養だと考えるところから生まれました。そして、そのような教養教育を、リベラル・アーツとは区別して、ジェネラル・エデュケイションと呼びました。

ジェネラル・エデュケイションの中心的な価値は平和です。個々人の自由な生き方の前提には平和が必要だからです。力による平和ではなく、相互信頼と協働によって平和を追求しようとすれば、自己中心的・自国中心的・強者中心的な生き方、あり方から、自他の違いと多様性を尊重する生き方、あり方へと価値を転換して行かざるを得ません。ジェネラル・エデュケイションは、その意味で特定の価値に積極的に関わろうとします。この点は、日本では長い間、あまり理解されてきませんでした。しかし、大学における知の探求には公共的な使命(パブリック・ミッション)があるというのが、実はジェネラル・エデュケイションの当初からの大きな特色でした。地球規模での貧困格差の増大、自然環境の悪化という、私たちを取り巻く公共的課題がすでに待ったなしの段階に入っていることを考えると、ジェネラル・エデュケイションとしての教養教育は、今後ますます重要になって来るに違いありません。

しかし、自由と言い、平和と言い、それらはそれを実現しようとする人間の問題性自体を免責してはくれないということも私たちは考えざるを得ません。人間はまさに自由において問題を起こす存在であるということを認めなければなりません。自己本位・強者本位からの転換を阻む力が、本来社会的存在である人間をいかに内外から歪めているかという現実を見ないわけにはゆきません。リベラル・アーツとジェネラル・エデュケイションでは扱い得ない、人間の限界性と社会関係の歪みの問題を直視し、行動する勇気をどうしたら持てるでしょうか。リベラル・アーツとジェネラル・エデュケイションが、真にその力を発揮するためには、人間を超える超越の視点もまた必要であると思わざるを得ません。

明治学院大学が建学以来、教養教育の根底にクリスチャニティを堅持してきたことの意味はたいへん重要であると私たちは考えています。リベラル・アーツとジェネラル・エデュケイションに対して、このクリスチャニティが、明治学院大学の教養教育の第三の伝統です。神と人を愛し、世に仕えるための知のあり方が問われるところで、教養教育もまた真に時代の要請に応えるものとなるに違いありません。リベラル・アーツとジェネラル・エデュケイションとクリスチャニティ。これが明治学院大学の教養教育の三つのルーツです。

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